インタビュー

自然と共に美術館は生きていく。<後編>

06/04 2023

箱根・仙石原の地にポーラ美術館が誕生してから20年経ちました。設計〜施工から現在にいたる変遷を見守ってきた建築家の安田幸一さん(現・東京工業大学教授、安田アトリエ主宰)にポーラ美術館が開館するまでのあゆみと現在に至るまでの変化について教えていただきました。後編では『自然と美術の共生』を具体化するためのさまざまな工夫やエピソード、そしてポーラ美術館のこれからについてお話ししていただきます。

「自然と美術の共生」を実現するための9年

編集部

ポーラ美術館は箱根の国立公園内に位置していますが、この場所が選ばれたのはなぜでしょうか?

安田

このポーラ美術館の敷地を購入されたのは1963年のことだと聞いています。当初はここに、ポーラの社員のための保養所を兼ねた研修所を建てようと計画していたようです。

 

敷地を購入する以前の1958年、鈴木常司前会長は、ポーラのアドバイザーを務めていた野口達彌東工大教授とともに、静岡にある田中屋百貨店『日本洋画代表作家展』を訪れ、荻須高徳の《バンバラ城》とレオナール・フジタの《誕生日》の2作品を購入しました。それが初めての美術品購入だったそうですが、その時に、いつかは美術館を建てたいと考え始めたそうです。その建設地の候補が現在の仙石原の敷地で、長い間この土地に美術館を建てようと思い描いていたそうです。

安田

鈴木常司前理事長はこの場所をとても愛しておられました。やはり、一級の自然環境の中で一級の美術品を見せたいという思いが前理事長にあったのだと思います。それを我々は具現化するために、「自然と美術の共生」をテーマにしました。

 

この場所は、富士箱根伊豆国立公園の中にあり、自然保護を最重要視する土地と指定されています。ですから、そこに大規模な美術館を建てることは前代未聞の出来事でした。当然、自然保護団体からの反発も招き、その交渉5〜6年、工事が始まってからは2年ほどの時間を費やすことになりました。全部合わせると、ポーラ美術館が完成するまでに、約9年の年月が流れたわけです。

編集部

設計のコンセプトとして、「自然」は大きなテーマだったのでしょうか。

安田

ポーラ美術館の周辺はとても自然豊かな場所です。ですから設計者としても、ひとりの人間としても、この自然を改変して良いものか、ずいぶん悩みました。森の中には樹齢400年を超えるブナの木もあり、工事で傷をつけてしまえば取り返しがつきません。この美しい自然と景観を守るために、地面に円形の穴を掘り、そこに建築物を沈めるという案を考えました。森の中に高い建物があるのではなく、森の中に溶け込む美術館です。

 

空壕がお椀型であることにも理由があります。円形にすると接地面積が最小になり、土圧が均等にかかるため、空壕のコンクリート擁壁は薄く仕上げることができます。正方形にするとコンクリートの量が円形の約2倍以上も必要なんです。また、なるべく少ない材料で建築を作ることが、周囲の自然環境への影響を最小限に留めることにも繋がると考えました。

 

現在、美術館のホールになっているあたりには、もともと小さな谷があり、雨が降ると小さな川が出現しました。最初の案ではその地形を生かし、中心を中庭にして外光を取り入れようと考えました。エントランスはブリッジを渡り、階段で地下に降りて行く。これも当初からのプランです。

1993年に最初に提案された円形美術館案

©️安田幸一

1993年に最初に提案された円形美術館案

©️安田幸一

安田

林さんが、最初のプランで大筋は良いと了承してくれたので、そこからアイデアを発展させていき、階段ではなくエスカレーター、お椀形の土台には十字形の建物を埋め込むことになりました。なぜ円形の土台に十字形なのかというと、当時の建築の法規には、「建物は四角くなくてはいけない」という規定があったのです。そこで、周辺の雄大な自然に対して、どのような幾何学形態があるだろうかと試作を重ね、ロシア構成主義のマレヴィッチの幾何学形態からヒントを得て、円形の濠に十字形の美術館という現在の形に辿り着きました。この建物の利点は、中心にロビーがあり、建物が左右に分かれているので、火災や地震が発生しても30秒以内に安全な外部デッキへ避難することができます。

美術館スタディの変遷

©️安田幸一

安田

土台のお椀形についても、工事の安全性が確保でき、かつ削り取る土の量が最小限になることを考慮して、現在の形に収束していきました。この空壕の形は、メキシコのチチェンイッツァ遺跡、エジプトのハトシェプスト女王の葬祭殿など、大自然の中に時代を超えて存在する建築物の形です。天に向けるのではなく、地中に掘っていく。とはいえ、ピラミッドに似ているというのは、工事中に気がついたことなので後付けではありますが(笑)。

編集部

ちょうど設計している最中に、1995年の阪神淡路大震災がありましたね。

安田

空壕にすることで、美術館全体を免震にすることができました。ポーラ五反田ビルから継承した、橋梁のような大スパンの構造技術は、免震ゴムで建築を支えるためにとても効果的でした。

 

また湿気対策にも優れています。箱根は緑に囲まれているので、非常に湿気が多い土地です。美術館のまわりにヒメシャラという木がたくさん自生していますが、それが生息するのは湿潤な場所だという証拠です。建築物が地面に接していると、美術品の大敵である湿気が、美術館の中に大量に入り込んでしまう恐れがあるため、空壕によって地表の空気が巡るようにしています。

 

災害への備えという点では、林昌二さんがこだわっていたのは、空壕の中に雨水が溜まらないように、100メートルの非常時排水用のトンネルを設けることでした。2019年、巨大台風19号が箱根を襲ったときにとても役立ち、美術館本体にはほとんど被害が及ばずに済んだのも、当時林さんが、やっておくべきだと進言してくれたおかげです。

排水トンネルの工事写真

唯一の無念と、新しい希望の光

編集部

設計から7年、関係団体との長い交渉が決着し、やっと工事が始まった2000年、鈴木常司前理事長がお亡くなりになりました。

安田

空壕を掘削していたときに、鈴木常司前理事長が逝去されました。長い間、工事が始まるのを待っていてくださったのですが、もう少し早く完成して差し上げたかったというのが唯一の無念です。

 

我々にとって救いだったのが、跡を継いだ鈴木郷史現理事長が、美術やデザイン、技術にも大変お詳しい方だったことです。当時、日建設計の副社長だった林昌二さんも、「鈴木常司前理事長にお見せできなかったのは残念ですが、鈴木郷史社長(現理事長)はとても素晴らしい人物だから、前理事長の遺志を立派に受け継がれ、素晴らしい美術館が出来上がるのではないか」と仰っていました。

 

我々は周辺の自然を傷つけないように、美術館の円形敷地内のみで工事を進めました。工事中の排水は、浄化設備を設置し、綺麗な水に戻してから、早川の下流に流しました。しかし、いくら自然に配慮しているとはいえ、工事では木々を伐採することになります。そこで、ブナの実生を育て、ブナの木の植樹も行いました。また、美術館の周辺は豊かな自然が残されていますが、さらにその奥に、ほとんど人の手が入っていないブナ木の群生地があります。そこで美術館の建設時、かながわトラストみどり財団に森側の土地の一部を寄付しました。

ブナ林の再生 ブナの実生を生育し、森に戻す

撮影:石黒守

編集部

ポーラ美術館は特徴の多い建物ですが、設計・施工の際に印象的だったことは?

安田

ポーラ美術館は光を最も重要な要素と考えていました。光ファイバー照明を初めて全面的に採用したことや光を反射させるギザギザのコンクリート天井です。設計の時、植木浩氏(ポーラ美術館初代館長)が、展示室の光は「7月のパリの夕暮れ」と仰ったことから、担当した豊久将三さんたちが実際に渡仏して、光のスペクトル成分を分析・検証したというエピソードがあります(註:現在はLED照明に変更)。

 

また、着工してから半年後、照明・空調も含め、展示室の実物大のモックアップ(模型)を制作しました。学芸員の方に本物の絵画を運んできていただき、実際のシミュレーションを行うことで、照明や天井材、床材など細かい点の最終決定を行うことができました。1分の1のモックアップはとても重要な役割を果たしたのではないかと思います。

ポーラ美術館 展示室照明実験 実寸大モックアップ

撮影:石黒守

安田

ポーラ美術館は、施主も施工する側も、とにかくいいものを作りたいという熱意に溢れていました。展示ケースはドイツから取り寄せ、美術館の吹抜け壁面を覆うストライプ状のガラスは、1枚1枚職人の手焼き。ガラスを支えるアルミ支持材も特注です。今、ここまでこだわり抜いた建物を造るのは、とても難しくなりました。

編集部

2002年に美術館は竣工しました。美術館が開館したときの感想を教えてください。

安田

ポーラ美術館のデザインのリーダーに就任したのが35歳、美術館が完成したとき、私は44歳になっていました。完成した美術館を見て回って、特に印象的だったのは、開館記念展で展示室の中央に飾られたピカソの子どもの絵(※1)です。まるで天使のような印象です。これは鈴木常司前理事長が生前最後にコレクションした一枚であり、この写真を見ると、今でも込み上げてくるものがあります。

次の時代の、“遺跡”になることができる美術館

編集部

ポーラ美術館は2022年に20周年を迎えました。この20年の変遷、そしてこれからのポーラ美術館をどのように捉えていますか。

安田

20年の間に、展示する美術品も変わりました。開館当初は印象派の絵画と日本画、東洋の陶磁器が中心でした。大きな美術品を展示する予定ではなかったので、天井の高さを4mで想定していました。現在は、現代美術の展示も増えたので、天井をもう少し高くしておけばよかったと思うこともあります。唯一、展示室に作っておいて良かったと思ったのは、森の景色を一望できる窓です。一般的に絵画にとって、自然光は有害になるため、開館後から10数年間の展示では窓も壁面で隠され、閉めっぱなしでした。それが2019年の「シンコペーション」展や2021年の「ロニ・ホーン」展で、森が見える展示室として初めて活用されるようになりました。自然光と森の風景の中での展示をみたときは、とても感慨深いものがあったことを覚えています。

 

建築という側面で見ると、この20年、ポーラ美術館は開館当初のままの姿を保っています。建築の材料には、年をとるものと、とらないものの2種類あります。年をとる建材というのは、月日とともに侘びてくるといいますか、汚れや劣化が目立ってきます。一方で年をとらない建材は、様子がほとんど変わりません。ポーラ美術館は、クリスタルをイメージしてガラスを多く使っています。美術館に使用した石材のトラバーチン(※2)も、特に白いものをイタリアから取り寄せ、多少は色焼けてきますがこれも数百年後も大きな変化はありません。

安田先生の事務所に保管されているポーラ美術館の断面図。

安田

未来に視点を移すと、建築家が設計に着手するとき、100年、200年という大きなスパンでものごとを考えます。先ほど遺跡の話をしましたが、当時、ポーラ美術館の設計チームのメンバーと、もし100年、200年が経ち、美術館の本体が朽ちてしまっても、お椀形の土台は残るはずだと話したことを覚えています。美術館の建物がなくなっても、土台のお椀型コンクリートが苔むして、少しずつ土に戻っていき、新しい地面になり、この土地の新しい地形に生まれ変わる。

 

数百年ぐらいでは壊れないような頑丈な土台です。ですから、次の世代、次の次の世代の建築家が、このお椀形の空壕の上に、見たこともないような新しい美術館を建てるかもしれません。我々はそれを生きて目にすることはできませんが、後世の建築家が、全く新しい発想で、ここに建物を作ってくれることが楽しみです。

(※1)ピカソの子どもの絵…《花束を持つピエロに扮したパウロ》1929年

(※2)トラバーチン…大理石の一種。緻密(ちみつ)な縞状の構造をもつ。建築や家具用材となる。

安田幸一(やすだ・こういち)

1981年 東京工業大学工学部建築学科卒業。1983年 東京工業大学大学院建築学専攻修士課程修了。1983〜2002年 日建設計。1989年 イェール大学大学院建築学部修士課程修了。1988〜91年 バーナード・チュミ・アーキテクツ・ニューヨーク事務所。2002年〜現在 東京工業大学大学院教授、安田アトリエ主宰。