インタビュー

自然と共に美術館は生きていく。<前編>

06/04 2023

箱根・仙石原の地にポーラ美術館が誕生してから20年経ちました。設計〜施工から現在にいたるまでの変遷を見守ってきた建築家の安田幸一さん(現・東京工業大学教授、安田アトリエ主宰)にポーラ美術館が開館するまでのあゆみと現在に至るまでの変化について教えていただきました。前編は、美術館誕生の前日譚として、施主となる鈴木常司さん(ポーラ創業家二代目)と建築家・林昌二さん(日建設計)の出会いから始まります。

ポーラ五反田ビルをつくった、林昌二という建築家

編集部

今回は、建築としてのポーラ美術館のあゆみ教えていただきたいのですが、安田さんはどのような経緯で設計チームに参加することになったのでしょうか。

安田

まず、ポーラ美術館について語るには、美術館の施主であり、ポーラ創業家二代目の鈴木常司さんと、日建設計の建築家・林昌二さんとの関係から始めたほうが良いでしょう。というのは、美術品のコレクターが、思い入れのある美術品を保存・展示する美術館の設計を依頼するということは、建築家に対して相当な信頼を置いているという証です。ポーラ美術館は、言わば、この2人の信頼関係から生まれたと言っても過言ではありません。

 

まず、林昌二さんについて説明しましょう。林さんは、ポーラ美術館の前段階となる、ポーラ五反田ビルの設計を手掛けた建築家です。彼の代表作のひとつは、今年(2023年)3月から解体工事が始まる、東京・銀座4丁目の「三愛ドリームセンター」です。長い間、銀座のシンボルであった地下3階・地上9階建てのビルは、1962年(昭和37年)、林さんが34歳の頃に設計を手掛けました。銀座の一等地で敷地面積としても制限がある中、「光の円筒ビル」をイメージして広告塔とガラスのビルを一体化させた先駆的な建築で、ここで採用された新しいガラスの技術(※1)は、後のパレスサイド ・ビルディング、そしてポーラ美術館にも継承されています。

三愛ドリームセンター

安田

次に注目したいのが、1966年(昭和41年)に完成した東京・竹橋のパレスサイド・ビルディング(以降、パレスサイドビル)です。現在も毎日新聞社本社ビルとして使用されている、円筒形コアと長大なオフィス空間による建築です。この円筒形のエレベーターコアは三愛ドリームセンターでの経験が活かされており、整形のオフィス平面と縦動線やトイレなどのコア部分を明確に分け、明快で画期的なオフィスプランを創り出しました。製鉄工場の設計などで培われた構造技術もこの大スパン構造に反映されました。

パレスサイドビル(1966年)航空写真

安田

そもそも日建設計とポーラとの関係は、1952年のポーラ名古屋ビルの改修に遡るのですが、林さんとポーラ社との関係は、このパレスサイドビルから始まります。パレスサイドビルの竣工が新聞の朝刊に掲載されて、それをご覧になった鈴木常司前会長が、林さんに電話をかけてポーラ五反田ビルの設計を依頼されたそうです。

ポーラ美術館のアイデンティティが生まれた「ポーラ五反田ビル」

編集部

林さんと鈴木常司前会長との関係はパレスサイドビルがきっかけとなり、ポーラ五反田ビルへの設計へと繋がったということですね。

安田

そうです。電話をかけた当時秘書室長の方から直接伺いました。今や五反田の街の象徴のようなポーラ五反田ビルですが、初めは西新宿の超高層地区などで場所を探していたそうです。社員の通勤の利便性を重視して、今の場所に決定されたと聞きました。

林さんは、とても施主を大切にする建築家です。施主の考え方を尊重し、さらに昇華し発展させた上で大胆な建築案を提案する方でした。ポーラの社屋を設計するなら、ポーラという会社、ポーラが作る化粧品のフィロソフィを建物に反映しなくてはいけない、ビルを見た人がポーラを思い浮かべることができるものを設計する必要があると、化粧品会社としてのアイデンティティを考慮し、慎重に検討して設計に取り込みました。

安田

当時、私もポーラ美術館の設計の時、設計段階毎に行われる鈴木前会長へのプレゼンテーションに林さんらと共に参加していましたが、とても印象的だったのは、会議の中では、鈴木前会長はあまり多くを語らず、建築に関する判断をほとんどすべて我々に一任してくれたこと。こちらが提案する内容を全て肯定してくださるので、私たちも本当にこれで大丈夫なのか心配になり、会議の後に秘書の方に電話して確認したものです。

 

五反田ビルの設計時のひとつ面白い話としては、当時は社長室にバスルームと社長専用エレベーターを備える本社ビルが流行っていたので、「必要でしょうか?」と尋ねたら、鈴木前会長は、即座に「不要です」とおっしゃったそうです。そのやりとりにも鈴木前会長の実直な人柄が伺えますし、前会長は本当に必要のないものはきっぱり否定されるから、美術館の時もご提案した内容で納得していただけたのだろうと理解し、安心して設計を進めることができた、という思い出があります。

編集部

ポーラ五反田ビルからポーラ美術館へ受け継がれたものは?

安田

ポーラ五反田ビルで採用されたさまざまな試みがポーラ美術館へと継承されています。まず、ポーラ五反田ビルの特徴は、大スパンのダイナミックな構造(※2)がつくり出したクリスタルロビーと、池を跨ぐようにブリッジ状のエントランスが挙げられます。く山手線の車内から本社ビルを眺めると、総ガラス張りのクリスタルロビーを通して中庭の美しい緑の登庭が目に入り、清らかで瑞々しいイメージがポーラの化粧品のイメージと重なります。当時、オフィスビルといえば、単純な箱型で機能的であることを優先したものが多かった中、こんなに華やかな印象を持つビルは珍しかったと思います。

安田

また、ポーラ五反田ビルは山手線の沿線にありますが、当時の旧国鉄の許可を得て、無味乾燥なコンクリート擁壁だったビルの前の土手を、ポーラが大量の杭を打設し補強工事をした上で緑化したのです。竣工した1971年当時は、世間も環境保全という意識が今ほど強くありませんでしたが、ポーラはいち早くそこに着目し、緑に囲まれている新しい本社ビルのイメージを見事に創り上げました。その30年後に、森の中のポーラ美術館が誕生するのですが、その考え方はポーラ五反田ビルを継承しているものです。

 

もう一つ、忘れてならないのは、ポーラ五反田ビルにはすでにたくさんの美術品が飾られていたことです。クリスタルロビーには、グレコやロダン、マンズー等の彫刻が飾られていました。役員専用フロアの廊下にも、鈴木前会長のコレクションである印象派の絵がずらりと飾られていました。打ち合わせで初めて訪れたとき、誰でも知っている有名絵画がいくつもあり、つい「これらの絵は本物なのですか?」と秘書の方に対して失礼にも口に出してしまったほどの驚きでした。そこはすでに荘厳な美術館のような雰囲気が漂っていたのを覚えています。今でこそ、美術品を飾る会社は増えましたが、ポーラはこの点でも先駆けていました。

美術館施工後の20年、30年先までを考えた構想

編集部

ポーラ美術館の設計チーフに、鈴木常司前会長と関係の深い林さんではなく、当時若手のエースだった安田さんが抜擢された理由を教えてください。

安田

鈴木前会長から、ポーラ美術館の依頼をいただいた時、林さんはすでに日建設計の役員になっており、大変ご多忙でした。そこで、私に白羽の矢が立ったのですが、美術館の設計というのは、たいてい老練な建築家が手がけるケースが多いんです。当時、私は、33歳ぐらいの若手でしたが、林さんには大規模な建築は30代が設計するべきだという持論がありました。というのも、設計者は建物が出来上がった後も、20年〜30年ほどは建物の面倒を見るべきだという考えがあったからなんです。ちょうど林さんがパレスサイドビルを設計したのが30代後半でした。その林さんから「安田さんもやればできるよ」と言われてしまったら、私は全力で取り組むしかありませんでした。

 

美術館を設計するときに、最初にイメージしたのは、ポーラ五反田ビルのことでした。ポーラ五反田ビルの意匠を踏襲することで、クリーンで清潔感のあるポーラの社風を反映することができるし、鈴木前会長の要望にも答えることができる。さらに我々若い設計者チームにとっては林昌二さんへのオマージュにもなる。ですから、我々がやるべきことは最初から決まっていたわけです。とはいえ林さんはプロジェクトから全く離れてしまったわけではなく、美術館の完成まで温かく見守ってくれました。

 

ポーラ美術館は設計から竣工まで9年かかったので、完成した頃には44歳になっていました。20年経った現在もポーラ美術館に関わることができるのは、当時の林さんのご判断があったからだと思います。

ポーラ美術館 エントランス

ポーラ五反田ビルへのオマージュ ガラスリブ構法の採用

撮影:石黒守

(※1)新しい技術と意匠の継承…ポーラ五反田ビルのクリスタルロビーのガラス面は、日本で初めてガラスリブ構法が採用された。ガラスを通して、登庭の緑を艶やかに見せる手法は、ポーラ美術館のエントランスロビーでの傾斜したガラス屋根にも同じガラスリブ構法が応用された。ガラスを通して美術館を訪れる客が小塚山の緑と仙石原の広がりを楽しむことが可能になった。

また、パレスサイドビルで採用された空壕は、湿気の多い地下躯体から建築を切り離し、建築本体を健康に保つ工夫であった。ポーラ美術館でも、空壕のようにすり鉢状の基礎躯体と美術館本体を切り離し、美術館の場合は完全免震として、16箇所の積層ゴムで宙に浮いている。パレスサイドビルで行われたように、ポーラ美術館でも、組織設計事務所のエンジニアと外部のエンジニア、アーティストとのコラボレーションも積極的に行われた。

 

(※2)画期的なダイナミックな構造形式の伝承…ポーラ五反田ビルでは、新技術の鉄骨大架構により大きな開口部を取ることができ、山手線社内からクリスタルロビーを通して登り庭を眺めることができました。ポーラ美術館では、外観からは見えない地下3階部分で、免震性能を最大化する箇所で支持するため、27m大スパンの大型トラスが採用された。構造の考え方もポーラ美術館へ伝承された。

安田幸一(やすだ・こういち)

1981年 東京工業大学工学部建築学科卒業。1983年 東京工業大学大学院建築学専攻修士課程修了。1983〜2002年 日建設計。1989年 イェール大学大学院建築学部修士課程修了。1988〜91年 バーナード・チュミ・アーキテクツ・ニューヨーク事務所。2002年〜現在 東京工業大学大学院教授、安田アトリエ主宰。