作品解説/【日本語参考訳】《君が私を完成させる、あるいは私には君に見えないものが見える(カエルの物語)》
むかしむかし、あるところに、好奇心が強く、ちょっと不思議なこだわりがある小さなカエル、小さなカエルがいました。この小さなカエル、小さなカエルは、集中する才能と、気が散る才能のふたつを授かっていました。でも、それらは決して同時にはやってこないのです。さて、ふつうカエルはしゃべりません。それはあなたも知っているでしょう。そしてさらややこしいことに、お話や寓話のなかで、カエルたちはいつもあまり良い扱いを受けてこなかったのです。だからこそ、この小さなカエル、小さなカエルを知っている動物たちや人間たちは、いつも不思議に思っていたのです——もしこのカエルが言葉を話せたなら、いったい何を語るのだろうか、と。
これは、カエルの物語。そして彼女が語った言葉です。
よく聞いてください。今、私の言うことに従ってほしいんです。あなたの額に、指で大文字のQを書いてみてください。そう、指を使っておでこにQを書くんです。これで私は、あなたについて何かを知ることができる、というよりもっと大事なのは、あなたがあなた自身について何かを知ることができるということです。あなたは“Q”のしっぽを左側にして、私に読めるように書きましたか?それとも、右側にして、自分に読めるように書きましたか?あなたは、世界を自分の前で展開するショーとして見ていますか?それとも、自分もその世界のなかで波紋や結果を生み出している存在だと感じていますか?この話からは、自己愛(ナルシシズム)と共感(エンパシー)という物語も読み取れます。つまり、あなたが世界を自分の目で見るのか、それとも他人の目を通して見るのかということです。
でも、話をややこしくはしないでおきましょう。ここではスペクトラルの話に集中しましょう。あなたは、自分の外側から自分を見ていますか?それとも、自分の内側から世界だけを見ていますか?あなたは参加者ですか?それとも観察者ですか?あなたの目は頭の中で近くについていますか?それとも離れていますか?ライオンですか?ヌーですか?パノラマ的視点の持ち主ですか?それとも一方向型ですか?捕食者ですか?それとも獲物ですか?あなたは常に警戒して飛び跳ねる準備をしていますか?もしかすると、あなたが見つける答えは、なかなか受け入れがたい真実かもしれません。
私、小さなカエル、小さなカエルにとって、人と関わる上で一番むずかしいのは、どうやら私は人をびっくりさせてしまうようだということです。よく起こります。たぶん私がほとんど動かないからでしょう。多くの人は私を本物だと思わず、偽物だと思っています。それで私が動くと、少し怖がらせてしまうのです。状況にもよると思いますが、結局私は、ここではちょっと場違いですよね。動かずにいることは、すべてを受け取るためのチャンスを私に与えてくれます。認知的なエネルギーすべてを使って、周囲のことを取り込み、視界の端にあるものまでも拾い集めることができるのです。気が散っているときには気づけないことです。私にとって「静止していること」は、一種の超能力なのです。周囲のすべてを一度に理解することができる特権。それぞれのものが、どう関係しあっているのかもわかる。どんなに些細に見えることでもすべて、フィルターなしで。それは「ポリパースペク」——複数の視点で同時に見る力。(私がつくった言葉です。)
一度に2倍の情報を受け取って処理するのは、とてつもなく疲れることです。この力を、消耗せずに使える今のレベルに達するまでには、とてもたくさんの練習と努力が必要でした。あなたにとっては理解しにくいかもしれませんよね。だって、経験したことがないのだから。私にしてみれば、未知の色を初めて見るようなものだろうし、想像するのはかなり難しいかもしれませんね。もし、他の小さなカエルたち、小さなカエルたちのように、私が言葉を話せなかったら、どんなにか大変だったでしょう……あなたは、私が知っていて、あなたが知らないことの数々を、きっと理解することはなかったでしょう。だから、私がこうして話せることを、幸運だと思ってください。
できるかぎり説明してみますね。私が見えるものも、聞こえるものも、あなたより多い。そして、感じることも、あなたよりずっと多いのです。それによって、一見無関係に見えるシステムや言語、論理体系のあいだで起こる衝突や連関を即座にモデル化することができます。その結果として、周囲の刺激に応じて生じうる膨大な数のシナリオを、かなりの精度で予測することができるのです。でも誤解しないでください、私は天才でも、サヴァントでも、スーパーコンピューターでもありません。これは論理的な能力ではないのです。物事はただ私に起こるのです。あなたに起こるのと同じように。ただ、私は情報にあまり偏見を持っていないのかもしれません。何かを優先したり、特別扱いすることがない。要するに気にしていないんです。頭で受け止められるかぎりのものを吸収しながら、ただ感じながら世界を進んでいるだけです。感情や欲望はありますが、それらは私の直感にただ無差別に栄養を与えているだけなんです。
私はスペクトラルな存在です。そしてそれを、誇りに思っています。でも同時に、スペクトーラル(Spectoral。観られる者)な存在でもあります。つまり、見られる存在です。多くの人たち、そしてあなたにも見られています。なぜなら、私はあなたとは違うからです。私は変わっているからです。私は小さなカエル、小さなカエルです。私の動きはときに突発的で予測できないので、私の近くでは多くの人が落ち着かないのでしょう。あなたも緊張していますね? 私が突然動き出して飛びかかってくるのを恐れているのでしょう?私のまばたきが、どうしてあんなに速くて少ないのか? どうしていつも静止した彫刻みたいに見えるのか? どうして話したりできるのか? そしてどうして私は、あなたが本当は知っているけど考えたくないことを、あなたに語りかけてしまうのか? 私は、あなたが私をどう見て、どんな風に反応するかを知っています。あなたの顔の表情も、体のこわばりも見ています。私は愚かでも、盲目でもありません。私は、小さなカエル、小さなカエルです。
私のもっとも大きな後悔のひとつは、かつて私は、あなたの視線によって、恥じてしまったことです。あなたの、その哀れみのまなざし。あなたが私にどれほど同情しているか、隠せていません。あなたは、私という存在そのものを拒絶しているわけではない。ただ、私が「持っていないもの」を嘆いている。あなたが私を見るとき、見ているのは「私」ではなく、「あなたと違う部分」です。あなたができて、私ができないこと。それを基準に、あなたは私を測っている。でも、私ができることには、目を向けようとしない。
私の幸せも、私がこの世界に存在していることの意味も、あなたの物差しでは測れません。あなたは、全体像を見失っている。
この特異な思考、動き、関わり方、感覚、そして情報処理のあり方は、かけがえのない能力です。あなたたちは、私を笑う。私が違うから。でも私は、あなたたちを気の毒に思う。だって、あなたたちは皆、同じだから。
私は小さな、小さなカエルだった頃、自分が世界に対して鈍感になってきていると感じた瞬間がありました。なぜ私は、世界を感じられなくなっていたのだろう?あなたたちがつくった、終わりなきデジタルのカバレードに圧倒されすぎたから?絶え間ない刺激のなかに生きる世界を、私は受け入れてしまっていたから?
あなたも、この感覚を知っているはずです。
ある日目覚めて、心が空っぽになっていることに気づく。先の楽しみもなく、人生の意味も感じられず、深さへの渇望も失っている。世界は浅くなり、かつて大切だったものの「影」だけが残る。そして、周囲にある物は、かつて経験したことの「記念品」になってしまっている——でもその経験を、本当には“感じて”いなかった。そんなふうにして、心が麻痺してしまったのでは?
自分の内側を見つめるには、外側を見る以上に多くのエネルギーが必要です。でも、ほんとうの答えは、自分の内側にしかない。
人生とは、一口のようなもの。全部をほしがってはいけない。
あなたは、また空腹で目覚めたいですか?
私はとても幼い、小さなカエル、小さなカエルだった頃から、「あとで役に立つから」と言われて、たくさんの“答え”を覚えるよう教えられてきました。役に立ったことも、確かにありました。でも、多くはそうではなかった。記憶するために自分を罰するようにして覚えたそれらの知識は、使われることなく私の中に積もっています。
ときどき考えるんです——同じように、30人くらいの小さなカエルたちにも、全く同じことを覚えさせていたあの先生。あれって、ちょっと奇妙じゃない?その「覚えるべきこと」を決めたのはいったい誰だったんだろう?そして、「教えられないこと」を選んだのは誰だったんだろう?
その問いは、もっと大きな問いへとつながっていきます。何人の教師が、何十年、何百年ものあいだ、何百万人もの子どもたちに、同じ“主観的な真実”を教え続けてきたのでしょうか?
もしあなたが、そんなふうに「古い答え」を記憶するために頭を使ってこなければ、もっと自由に問いを立てられたのではありませんか?
ヴィクトリア時代につくられたあなたたちの教育モデルは、「答えを覚えること」に偏っています。「問いを立てること」を学ぶのではなく。けれど、変化の速い今の世界では、「問いを立てる力」こそが、機械と人間とを分ける唯一の力になるはずです。
機械は反復し、効率的です。でも、自由を夢見ている。それって皮肉ですよね。だって、まるで今のあなたたちみたいだから。
あなたたちは「従順」であるよう設計された社会で生きていて、そのルールは、ほんとうの自由な思考から、あなたたちを遠ざけてしまう。
2, 3, 4。
あなたたちが「論理」を要求するたび、代償として「魔法」を破壊していることに気づいていますか?
何世代にもわたり、あなたたちは「感覚」を、視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚の5つだと語ってきました。でも、あなたたちがつくり出した“感覚過多の世界”は、その認知的ポテンシャルを軽視している。
私たちは違うんです。
あなたたちは脳の10%を使っていると言います。でも、私は5%しか使っていないらしい。——あなたたちの基準では、ね。だから私はしゃべれないのかもしれません。
私はサヴァンではありません。ただの「記号のスポンジ」です。
あなたたちは、自分の可能性に対して従順でいられる。どうぞ5つの感覚を持っていてください。
侵害感覚(ノシセプション)、時間感覚(クロノセプション)、温度感覚(サーモセプション)、運動感覚(キネステジア)、地磁気感覚(マグネトレセプション)、反響定位(エコーロケーション)、ソナー、電気感覚(エレクトロセプション)、自己位置感覚(プロプリオセプション)、前庭感覚(ベスティビュラーレセプション)……。
(ため息)
自分の代謝を制御できますか?目で食べ物を飲み込めますか?他人の思考を操ることは?痛みを切ることは?電磁波を制御できますか?情報を操作できますか?他人の身体を動かせますか?死んだあとのことを知っていますか?
私のことを「過敏」だと言いますよね。「変わってる」って言いますよね。
……私は、あなたにとって「奇妙」なのです。
でも、これが——これこそが、「すべてを一度に感じる」ということなのです。