人々が生成し、繋いできた「ファン・ゴッホ」の魅力
ポーラ美術館では、開館以来初となるフィンセント・ファン・ゴッホをテーマとした展覧会「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」を2025年11月30日まで開催中です。
大規模なゴッホ展が国内で相次いで開催されることから、「ゴッホ・イヤー」とも称される本年。わが国では戦後から現在に至るまで、幾度となく大規模なゴッホ展が開催され、観る者の心を揺さぶり続けています。本展の図録にご寄稿いただいた、ゴッホ研究の第一人者である圀府寺司先生に、日本におけるゴッホを取り巻く状況についてお話を伺いました。
text: Motoko Aridome
installation view: Ken Kato
圀府寺 司(こうでら・つかさ)
1957年大阪府生まれ。大阪大学名誉教授。大阪大学文学部、同大学院で西洋美術史専攻を経てアムステルダム大学美術史研究科に留学し、博士号を取得。専門は西洋美術史。ゴッホ研究を中心に、ユダヤ文化と芸術、美術市場や国際的な画商制度など多岐にわたる分野を探究。おもな著書に『ファン・ゴッホ 自然と宗教の闘争』(小学館)『ユダヤ人と近代美術』(光文社新書)『ファン・ゴッホ 生成変容史』(三元社)などがあり、美術と社会、宗教、経済との関わりを多角的に論じている。
いくつもの偶然に導かれ、ファン・ゴッホ研究の道へ
先生とゴッホとの出会い、ゴッホ研究の道に進んだきっかけをお聞かせください。
最初からファン・ゴッホ研究に長年にわたって従事しようと思っていたわけではありません。大学の卒論のテーマとして20世紀美術を考えていましたが、先生に「現代美術では就職先がない」と言われ、割と素直に19世紀に方向転換しました。決め手になったのは、ちょうどその頃に刊行されたファン・ゴッホの全作品集です。ヤン・フルスカーというオランダ人の美術史研究家による全作品解説の日本語版が、英語版に先駆けて出版されたばかりという特別な状況もあって、研究環境としてとても魅力的に感じました。すでに書簡も読み込んでいたので、ゴッホを選ぶのは自然な流れでしたね。さらに学部時代にヨーロッパを巡り、特にアムステルダムの美術館の「誰にでも開かれている」という姿勢に衝撃を受けました。予約も身分証も不要で、日本から来た学生にも貴重な版画を見せてくれる。日本との違いに感動し「ここで学びたい」と強く思ったのです。こうして修士・博士をアムステルダム大学で修め、ファン・ゴッホ研究に進むことになりました。偶然の出来事が重なった結果の選択でしたが、何らかの必然性もあったのだろうと思います。
博士論文審査後の博士号授与式にて
ポーラ美術館のコレクションに見る、ファン・ゴッホ作品の特徴
「ゴッホ・インパクト―生成する情熱」展は、当館が開館時から収蔵する3点のゴッホ・コレクションをベースに、“ゴッホ現象”とは何だったのかをあぶりだそうとした展覧会です。まずはこの3点の《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》《草むら》《アザミの花》それぞれについて、どのような印象を持たれていますか。
アルル時代、サン=レミ=ド=プロヴァンス時代、オーヴェール=シュル=オワーズ時代という、ファン・ゴッホの晩年に至るまでの各時代の作品を所蔵しているのは、国内ではポーラ美術館だけですから、まずその点で貴重なコレクションだと思います。
《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》は、春の光が溢れるアルルの景色の中、パリからやって来たゴッホの高揚感が伝わってきます。実際の風景よりも鮮やかな色彩で描いているところに、独自の色彩世界の開花が見られます。経済的にも安定して、体調も良く、天気も良く、ファン・ゴッホ自身が珍しく幸福感を味わいながら制作をしていた時期の作品ですね。
アルルでの生活が破綻し、療養院に自ら入院したサン=レミ時代は、精神的にかなり辛かった時代です。その中で描けるものとして、肖像画や療養院の中庭の植物などがありました。《草むら》のように植物のクローズアップをたくさん描いているのは、ミクロコスモスに集中していたこと、日本の花鳥画への憧れや自然観への共感などが考えられます。
最期のオーヴェール時代におけるファン・ゴッホは、筆のタッチの表現力に気付いてのめり込んでいきます。ファン・ゴッホのタッチといえば、《糸杉》に見られるようなうねうねとした曲線が思い浮かびますが、《アザミの花》は、アザミの葉の形に合わせたのかカクカクとした筆づかいです。背景も合わせて鋭角的タッチで描いている点も面白いと思います。3点とも、それぞれの時代の特徴をよく表していると思います。
フィンセント・ファン・ゴッホ《ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋》1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ《草むら》1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ《アザミの花》1890年
日本ではまずストーリーから広まった
国内のゴッホ研究史において、今回の展覧会はどのように位置づけられるでしょうか。
「ファン・ゴッホが与えたインパクト」という明確なコンセプトを持った展覧会は、これまで日本国内ではなかった試みです。一方、海外に目を向けると、2020年にドイツのシュテーデル美術館で「メイキング・ファン・ゴッホ ドイツの愛の物語」展が、2022年にアメリカのデトロイト美術館で「アメリカのファン・ゴッホ展」が開催され、ファン・ゴッホの影響について紹介しています。シュテーデル美術館は1990年に大昭和製紙(現・日本製紙)の齊藤了英名誉会長が当時世界最高額で落札した《医師ガシェの肖像》を元々所蔵していた美術館ですし、デトロイト美術館はアメリカの中で最初にファン・ゴッホ作品を購入した美術館です。今回のポーラ美術館のゴッホ展は、こうしたファン・ゴッホに縁のある美術館での取り組みや、国際的な流れにも沿った、意義の深いテーマだと言えるでしょう。
ゴッホが後進の作家たちに与えたインパクトとはどのようなものであったか、先生のご意見をお聞かせください。
直接的な影響について、フランスでは、1901年のファン・ゴッホの回顧展を見て影響を受けたヴラマンクらによってフォーヴィスムが生まれ、ドイツではファン・ゴッホの色彩に感銘を受けたキルヒナーやノルデらがドイツ表現主義を始めました。もちろん日本でも、例えば萬鐵五郎をはじめとした多くの画家たちがファン・ゴッホに強い影響を受けています。非常にオリジナリティのある様式だし、インパクトが強いので、一時的にせよファン・ゴッホのスタイルで描いている日本人の画家は多いです。
ファン・ゴッホの作品を直接目にしたフランスやドイツの画家たちと違って、日本の画家たちは明治末期に創刊された文芸雑誌『白樺』でファン・ゴッホを知ったというのが興味深いです。
『白樺』で最初に紹介されたのは、ファン・ゴッホの手紙の翻訳でした。手紙の中の熱狂的な言葉や日本に言及している部分などがまず広がり、次に《包帯をしてパイプをくわえた自画像》などのモノクロ画像が掲載されました。1920年代に日本円が強くなり、ヨーロッパに行くことができた画家たちが、ガシェ医師の家で実物作品を目にしました。当時のパリの美術館にはファン・ゴッホの作品はせいぜい3、4点ぐらい、しかもクオリティの高いものはあまり入っていなかったのです。このようにもっぱら最初は文学的な出来事として始まったファン・ゴッホのブームでしたが、ついに1958年にファン・ゴッホの展覧会が日本で開催されたとたん、それまで饒舌に語っていた文学者たちが急に黙り込んでしまったという現象があります。劣悪な印刷や粗末な複製の作品には、言葉を介入させる余地がたくさんあったけれど、現物を見てしまったら、もう言葉を挟める状態ではなくなってしまったのかもしれません。こうした状況から考えると、ファン・ゴッホは、日本においてとても面白い広がり方をした作家の1人でしたね。
萬鐵五郎《木蔭の村》1918年(大正7)
展示風景より「3. ニッポンにおけるインパクト-『白樺』を中心に」
今回の展覧会のサブタイトルである「生成する情熱」には、ファン・ゴッホに触発された画家たちが、その影響を自身の中で昇華させ、新しい表現を「生成」していく。そしてその創造の「変容」が連綿と続いていくという意味が込められています。先生のご著書の『ファン・ゴッホ 生成変容史』(三元社)にも「生成」と「変容」という言葉が使われていますが、このタイトルに込めた思いを教えてください。
画家が亡くなってからどういう出来事が起こったのかという話は、これまで「受容史」と言われてきました。これは「受け取る」という意味で、とても静的で受動的な言葉です。しかしその実態は、画家が亡くなった直後にその画家の全体像がポンとあって、それを後の人たちが単に受け取ってきた、という訳ではありません。例えばファン・ゴッホの場合には、作品が散逸しないように日々保存し続けた義理の妹・ヨー、初期に展覧会を開いた画商、作品を一生懸命集めてきたコレクター、カタログ・レゾネを作った人たちなどの存在がそのプロセスの中にあります。こうした人々の営みは、いわゆる「受容史」という言葉では拾いきれません。誰かが作品や作家のイメージを作り、その作ったものを誰かが受け取り、それをさらに作り替えていく……そのダイナミックな連続性を正確に伝えるには、「変容史」という言葉がふさわしいと考えました。今振り返ってみても、この言葉の選択は間違っていなかったと思います。
揺らぎ、もがき続けたファン・ゴッホ
圀府寺先生がファン・ゴッホから受けたインパクトとは? 先生を魅了してやまないファン・ゴッホの魅力を教えてください。
これが一番困る質問です(笑)あえて言葉にしてみると、根底の部分には、感覚的にファン・ゴッホに対する共感があるのだと思います。私はアイデンティティの揺らぎのないアーティストにはあまり興味が湧きません。近代の画家たちの多くはそうした揺らぎをもつ人たちですが、その中でもとびぬけて揺らいでいるのがファン・ゴッホです。揺らいでいる人独特の、何かを表現したいけどどうしてもしきれなくて、何度も作風を変えながら一生かかってもがき続けたというところに関心があります。もうひとつは現実的な話で、日本ではファン・ゴッホの「需要がある」ことです。日本では定期的にファン・ゴッホの展覧会が開かれ、専門家として発言したり、論文を発表する機会をいただいてきました。この取材もまさに「需要」のひとつですよね。その繰り返しや積み重ねで研究をアップデートし続けて、今に至っています。もしも私が日本ではなく海外に住んでいたら、これほど長くは続けてこなかったでしょうね。
もしも先生が「ゴッホのこの一点」を選ぶとしたら、どの作品を選びますか?
あり得ないけれど、もし買える値段だったら欲しいなと思う作品が《パシアンス・エスカリエの肖像》です。アルル時代に描かれた農夫の肖像画なのですが、あの時代特有のオレンジ色と青が使われ、目のまわりをぐるぐると囲む筆のタッチには後年につながる独自の表現の萌芽が見られます。ここに至るまでのファン・ゴッホのさまざまな努力も感じられます。個人蔵のためあまり展覧会には出てこないので、見飽きてしまわないという点も魅力的です。万が一オークションに出ることがあっても100億は下らないでしょうから、手に入れるのは絶対に無理ですね。
《パシアンス・エスカリエの肖像》1888年、個人蔵 提供:Bridgeman Images/アフロ
「色メガネ」を外して作品と向き合ってほしい
展覧会図録へは「『なぜかとてもはやっているので、かるく好きという人が多い』画家―文化産業が変貌させてきたファン・ゴッホ像」と題したテキストをお寄せいただきました。寄稿依頼を受けたとき、率直にどのような印象を抱かれましたか?
「日本におけるファン・ゴッホの受容史」といった一般的な内容を期待されているのかなとも想像しましたが、それではこの展覧会の持つ性質の一面しか捉えられていないのでは?と考えました。私は現代の展覧会事情について危惧する部分や問題意識もあり、書いているうちにタイトル通りの内容になっていきましたが、もしボツになったら、オーソドックスなテキストに軌道修正するしかない、と……。なので、このタイトルのまま掲載していただいて感謝しています(笑)。
非常にインパクトのあるタイトルでした(笑)。日本全国でゴッホ展が多数開催される今、まさに「なぜかとてもはやっているので、かるく好き』な感覚でゴッホ展に足を運ぶ人も多いかもしれません。こうした人たちに向けて「こんなふうにゴッホを見てみたら?」といったアイデアがあれば、教えてください。
それについて言えることは一つだけです。画家が心血を注いで作り出したのはあくまで作品なので、作品をちゃんと見ていただきたいと思います。ファン・ゴッホについては、耳を切ったことや、ストーカー的な行動をしたこと、気難しい性格だったことなどへの先入観がファン・ゴッホ像を作りだしていて、それが「色メガネ」になっています。まず自分は「色メガネ」をかけているという自覚を持ち、それを外そうという意識を持って、素直に作品を見てほしいですね。また、自分がこれまでに仕入れた知識や情報を確認するために行くのではなく、作品が表現しているものを自分なりに受け取って、そこから考えを深めてみてほしいです。それが、作家や作品との誠実な向き合い方なのではないかと思います。