「ルノワール礼讃 ルノワールと20世紀の画家たち」展
日本最多のルノワール・コレクションを持つポーラ美術館が、初めて開くルノワール展。“印象派の画家”にとどまらない、新たなルノワール像が見えてくる!
ルノワールに会いたい!―老画家のアトリエを訪ねる若き才能たち。
次世代の芸術を動かした「ルノワール礼讃」の様相を探る
近年、研究者の注目を集めているのが、晩年のルノワールが後世の画家たちに与えた影響です。マティスやボナールといったフランスの画家だけでなく、エコール・ド・パリの画家たちやピカソ、日本の梅原龍三郎にいたるまで、多くの画家がこの時期のルノワールに敬意を表し、なかには直接教えを請いに訪れた者もいました。彼らとルノワールの作品を同じテーマで比較しながら、計52点の作品により、20世紀初頭における「ルノワール礼讃」の広がりをご紹介します。
なぜ、いまルノワールなのか?―展覧会ことはじめ
「なぜ、いまルノワールなのか―という疑問をもたれるかもしれませんね。 大きなきっかけとしては、台湾の故宮博物院で開催した 『ルノワールと20世紀の画家たち』展があります。」
2013年5月25日から9月8日まで開かれたこの展覧会は、 台湾初の本格的なルノワール展として話題を呼び、 約21万人の入場者数を記録しました。 ポーラ美術館は、ルノワール作品16点をふくむ53点の作品を出品しました。
「ポーラ美術館は監修から関わっていて、 当館の《レースの帽子の少女》がバナーやポスターを飾っていたんですよ。 今回の展覧会には、台湾からの凱旋帰国展という側面もあるんです。」
「レ・コレット」のアトリエでのルノワール 1918年
アンリ・マティス旧蔵 ©Archives Henri Matisse
「レ・コレットのルノワールの自宅」
現在はルノワール美術館として公開されております。
Ville de Cagnes-sur-Mer, Service de la communication
多くの若手画家を刺激した、後半期~晩年の作品の魅力を伝えたい
「それからもう一つ、いまルノワール研究の世界的な傾向として、彼の印象派以降の作品・・・1880年代から晩年にあたる1900年以降の作品と、 それらが後世の画家たちに与えた影響が注目されているということがあります。ポーラ美術館はルノワールの作品を16点収蔵していますが、とくに1880~1890年代の作品に良いものが揃っているのです。今回の展覧会では、その中から14点が出品されます。」
今回の展示では、台湾展とは一味ちがう仕掛けを施しました。
「ポーラ美術館は、ルノワールの影響を受けた同時代の日本の画家たちの作品も数多くコレクションしています。そうした画家たちの作品を一緒に並べて展示することで、ルノワールが20世紀の芸術にどんな影響を与えたのか、そして日本ではどのように受容されたのかが、生き生きと伝わるような展覧会にしたいと考えています。」
同じ志をもつ20世紀の若者たちの眼を魅了した、ルノワールとその芸術。会場では書簡や同時代の証言、写真資料などもまじえて、西洋、そして日本における「ルノワール礼讃」現象の広がりを追っていきます。
ルノワールが得意とした4つのテーマで構成されています。
Curator's Eyeでは、各章のみどころについて工藤 弘二学芸員が語ります。
Ⅰ.花
「ルノワールは何を描いてもその表現は花のような魅力をそなえている」(テオドール・ド・ヴィゼヴァ)
ルノワールにとって花は、人物モデルとは異なり、より自由に美的な表現を追求できるテーマでした。
その芳しさや華やかさは、ほかの主題の表現にも通じるルノワール芸術の精華として、1890年代から高い評価を受けています。
Curator's Eye 悩んだら「花」を描く
冒頭でご紹介しているのは、美術批評家テオドール・ド・ヴィゼヴァの言葉です。ヴィゼヴァは、後半期のルノワールの絵画を高く評価していました。彼は、ルノワールが描く花の絵のことをこんな風にも語っています。「まったく女性的な、甘美な物憂さと悩ましい気まぐれとが混じり合い、魅惑を放ってやまない・・・。」
キース・ヴァン・ドンゲン 《中国の花瓶》 1910年
©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2013
ピエール・オーギュスト・ルノワール 《アネモネ》 1883-1890年頃
Curator's Eye エコール・ド・パリの画家とルノワール
Ⅱ.女性
「ルノワールは19世紀の女性の優美さを創造した」(オクターヴ・ミルボー)
ルノワールは、若いときから人物肖像を多く描いていますが、仕立屋の家の息子として培った感性をもとに、巧みな色使いと柔らかな筆致で女性のファッションを描きだすことが得意でした。その志向は、18世紀フランスのロココ絵画への関心を背景に、甘美な魅力がいっそう高められた女性表現を生み出しました。
Curator's Eye ファッションフリーク
ルノワールは仕立屋の父とお針子の母に育てられたこともあり、女性の衣装を描くことに、強い歓びと愛着を感じていたようです。雑誌のファッションプレートを参照したりして、最新の流行を意識的に描いています。
この作品の少女の帽子も当時の流行のものですが、軽やかなレースの質感を、簡潔な筆致で巧みに捉えていますね。
ピエール・オーギュスト・ルノワール 《髪かざり》 1888年
ピエール・オーギュスト・ルノワール 《レースの帽子の少女》 1891年
Curator's Eye 《髪飾り》
1888年に描かれた《髪かざり》は、ルノワールが試行錯誤の末に生み出した、到達点といえる作品です。「線」と「色彩」が見事に調和しているでしょう?女性のゆるやかなS字のボディライン、しなやかな表現は、ルノワールが古典的な芸術から学んだ部分です。いすの脚など、繰り返されるカーブのモチーフが、画面にリズムを生んでいます。ドレスは当時流行の砂時計型で、ファッションへの気配りも十分。この1点でルノワールの魅力を語り尽くすことのできる、優れた作品だと思います。そうそう、図版では伝わりにくいのですが、 上着の肩の部分のほのかに透けるような表現がとても綺麗なんです。ぜひ実物で確かめてほしいですね。
Ⅲ.裸婦
「私は昨日、カーニュのルノワールのところで、これまでに眼にしたなかで最も美しい裸婦の作品を見た」(アンリ・マティス)
ルノワールのスタイルに重きをおく姿勢を最も雄弁に物語っているのが、裸婦の主題に対する一貫した取り組みです。印象派を離脱した後の1880年代に立ち帰ったのはこの主題であり、1890年代後半以降はルノワール芸術の代名詞として後続世代の作家たちからも惜しみない称賛を受けています。
Curator's Eye みなぎる生命感を描く
印象派のスタイルに行き詰り、イタリアを旅したルノワールの心をとらえたのは、ラファエロのフレスコ画など、イタリアの古典古代の造形でした。
帰国後、すぐに自然の中の裸婦像に着手しているのですが、裸婦というのは、常に西洋美術の重要なテーマでしたから、長い芸術の伝統に立ち帰るために、裸婦を描こうとしたのでしょうね。
肌の質感や、生命感がみなぎるような生き生きとした描写は、後続世代のマティスや中村彝に受け継がれていきます。特に、第4章で展示している中村彝の《泉のほとり》は、ルノワールの作風にそっくりです。中村彝がルノワールの裸婦にどれほど強く魅了されていたか、非常によくわかる作例だと思いますね。
ピエール・オーギュスト・ルノワール 《水浴の女》 1887年
中村彝 《泉のほとり》 1920年(大正9)
Curator's Eye ルノワールってどんな画家?
それからもう一つ、ルノワールは磁器の絵付けの仕事を通して、当時人気のモティーフだった、18世紀フランスのロココ様式の絵画に親しんでいました。ルノワールが描く女性の華やぎは、ロココの時代の華やぎなんです。これはルノワールが生涯にわたって大切にした、根幹をなす部分でもあります。
Ⅳ.南フランスと地中海
「カーニュは父が来るのをひたすら待っていたようだった。」(ジャン・ルノワール)
人物や花の主題で知られるルノワールも、印象派の画家としての光の効果への関心に基づき、自然の風景を描いていますが、しだいにそれは裸婦像の背景としての表現が主になっていきます。
1900年代に入ると、ルノワールは南フランスの地中海岸の町カーニュ=シュル=メールを新たな拠点としています。その後、彼の描く風景は、強い光のもとで鮮やかさを増した色彩により、古典的な裸婦表現の舞台として、あたかも楽園のように描き出されるようになります。
Curator's Eye “ルノワール礼讃” 現象とは?
例えばドラクロワがアルジェリアで、セザンヌが南仏で・・・というように、南方の強い光に影響されて、画家が色彩を発見するというケースがあります。ルノワールもそうでした。カーニュの陽光で鮮やかさを増した作品は、パリで絶賛されて、印象派の時期を超える評価を得るようになったのです。
ピエール・オーギュスト・ルノワール 《風景》
いくつか、ルノワールに憧れた画家たちの作品をご紹介しましょう。
例えばマティス。彼は1917年に「レ・コレット」を訪問し、約2年後にルノワールが没するまで、何度も会いに行っています。
ナビ派として知られるボナールも、ルノワールと親しかったんですよ。
最晩年のルノワールは、あるとき「美しく描かなければならない、そう思わないか、ボナール」と語りかけたそうです。
アンリ・マティス 《横たわる裸婦》 1921年
©2013 Succession H.Matisse / SPDA, Tokyo
ピエール・ボナール 《白い服の少女》 1942-1945年
日本の梅原龍三郎などは、ルノワールに心酔するあまり、アポなし、紹介状もなしで「レ・コレット」を訪れています。
ルノワールは気さくで交際好きでもありましたから、そんな突然の訪問にもかかわらず、梅原をあたたかく招き入れ、絵を教えてあげたりもしています。晩年のルノワールの姿や芸術は、こうした彼を敬愛する人々の記録などを通して、世界中に伝播していったのです。
梅原龍三郎 《臥裸婦》 1932年(昭和7) 油彩/カンヴァス
晩年の梅原龍三郎、市ヶ谷加賀町の画室にて(松本徳彦撮影)
1984年(昭和59) 個人蔵
ピエール・オーギュスト・ルノワール 《水浴の後》 1915年