12月2日(月)~13日(金)まで臨時休館いたします
ジュール・パスキン(本名:ユリウス・モルデカイ・ピンカス)は、ブルガリアのヴィデンでユダヤ系の裕福な商人の家庭に生まれた。ベルリンやウィーンの美術学校で絵画の修業を積んだ後、ミュンヘンでデッサンの才能が認められて1904年に諷刺雑誌『ジンプリツィシムス』と専属契約を結び、諷刺挿絵を描く。この頃から彼は本名の“Pincas”(ピンカス)の綴り字を並びかえて“Pascin”(パスキン)と名乗りはじめる。1905年にパリに移り、モンパルナス、続いてモンマルトルに居を構えた。第一次大戦中は渡米して中南米やキューバも訪れているが、1920年にはパリに戻り、モンマルトルにアトリエを構えながらモンパルナスに通い、エコール・ド・パリの画家たちと交遊した。 1920年代になってパスキンは独自の作風を確立する。「真珠母色の時代」と称されるこの時期、彼は震えるような線描、けむるような淡い虹色の色彩とやわらかなタッチを用いて退廃的なエロティシスム漂う裸婦や少女の姿を数多く描いた。本作品もこの時代に制作された作品のひとつである。果物が載った皿を手に持ち、うつろな視線を宙に投げかける少女の姿には、メランコリックではかなげな雰囲気が漂っている。また、少女が座る椅子の不明瞭な表現と曖昧な背景表現は、人物像を際立たせながらも不安感や孤独感を醸し出している。 パスキンの絵画には退廃、倦怠感、孤独感などが感じられることはしばしば指摘されてきたが、それは放浪や大都会の狂騒の陰で画家自身が抱えていた感情が映し出されているからであろう。彼は1930年、ジョルジュ・プティ画廊の大規模な個展の開催前日にアトリエで自ら命を絶った。原因はアルコール依存症、友人の妻との不倫の恋、制作の自由を奪うベルネーム・ジュヌ画廊との専属契約など諸説あるが、真相は明らかではない。いずれにせよ彼は二度と戻れない旅に出てしまったのだ。