12月2日(月)~13日(金)まで臨時休館いたします
シャガールは、ヴィテブスクのユダヤ人居住区の労働者階級の家庭に生まれた。ペテルブルク(現サンクト=ペテルブルク)の帝室美術奨励学校に通い、後にロシア・バレエ舞台美術担当者のレオン・バクストに絵画の指導を受け、フランス印象派の作品に触れる。1910年にパリに行き、1912年には「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)にアトリエを構え、アポリネールら前衛詩人たちやモディリアーニ、スーティンらと親交を結んだ。第一次大戦中はロシアにとどまり、革命後は美術学校校長などの美術行政の要職を務めるが、1923年にパリに戻り制作を続けた。第二次大戦時にはアメリカやメキシコに滞在し、バレエの舞台装置や衣装を手がけ、大回顧展を開催している。再びパリに戻った後はヨーロッパで回顧展を開催し、油彩画のほかに版画、挿絵、彫刻、ステンドグラス、陶芸なども手がけるなど、精力的に制作活動を続けた。 ロシアのユダヤ人居住区の暮らし、ユダヤの伝統、家族、農民の生活、恋人たちを主題とした奔放で色彩豊かなシャガールの作品は、詩的で神秘的な幻想性に満ちている。彼は後年、自らの芸術にとってパリはいかに重要であったかを語っているが、数多く描いたのは故郷ロシアの思い出だった。《村のパン屋》はシャガールが1910年、パリで制作をはじめた頃の作品である。彼は自伝『わが回想』のなかで、家の向かいに住む上品なパン屋の家族、そして毎朝パンを買いに行った幼い頃の思い出を語っている。また、本作品にみられる幾何学的な形態で構成されたパン屋と向かいの家などには、シャガールがパリで触れたキュビスムの形態表現の影響がうかがわれる。シャガールは大切な故郷の思い出を新たな芸術様式を用いて描くことにより、あざやかなイメージとして蘇らせているのだ。