作家名
黒田清輝
制作年
1912年(大正元)
技法・素材
油彩/カンヴァス
サイズ
72.9 x 60.5 cm

黒田清輝 《菊》 1912年(大正元)

作品解説

1910年(明治43)、44歳の黒田清輝は、洋画家としてはじめて帝室技芸員に命ぜられた。この作品は、その慣例によって宮中に献じた作品《菊花図》(東京国立博物館)と同時期に制作されたものである。ともに中菊、小菊を描いた華麗な作品であるが、本作品は《菊花図》に比べ、より自由で軽快な筆致で描かれている。黒田清輝はフランス留学時代から菊の花を好んで描いており、留学後半期の多くを過ごしたパリ郊外の村、グレー=シュル=ロワンで描いた最後の作品も大きな花瓶にあふれるように生けられた菊の花々であった。その作品《菊花と西洋婦人》(1892年)の菊はグレー村の公爵ド・カゾーから黒田に贈られたもので、菊のかたわらに描かれたふたりの若い女性は、黒田のグレー時代の代表作《読書》(1890-1891年、東京国立博物館)《婦人図(厨房)》(1892年、東京藝術大学大学美術館)などのモデルをつとめた村の娘マリア・ビヨーと、その姉である。黒田清輝が2年間ほど滞在して制作したグレーは、19世紀後半から多くの画家、詩人、作曲家たちの集まる芸術家村であった。黒田が滞在した1890年代には芸術家村としての終焉を迎えていたが、彼が訪問した後も浅井忠ら多くの日本人画家が訪れ、日本の外光主義発祥の地として知られている。黒田清輝がビヨー家の家屋を借りて生活、制作していた通りが、2001年10月に「黒田清輝通り」と命名され、黒田の自画像入りのプレートが設置された。
 帰国後の黒田は画家としてのみならず、教育家、行政家、政治家として多忙な後半生を送る。幼少期から高い教育を受け、フランスでまず法律を学んだこと、そして画家としてパリの画塾内にとどまることなく芸術家村で過ごした経験などから西洋文化に対する広い理解と見識を得たのであった。本作品は1913年第7回文展に出品された。