秋立湖畔

  • 作家名 川合玉堂
  • 制作年 1953年(昭和28)
  • 技法・素材 紙本彩色/額装
  • サイズ 57.2 x 78.8 cm
日本の里山を愛し、四季折々の風景を文人画の伝統に則って描いた川合玉堂は、時代の流れとともにいずれ消え去ってしまうであろう古き良きものを静かに見つめつづけた。  第二次大戦中の1944年(昭和19)7月、玉堂は疎開のため東京都西多摩郡三田村町御岳(現・青梅市御岳)に移転する。その後、当地に構えた画室を「偶庵」と呼び永住の場と決める。そして戦後は奥多摩の自然を写生して歩き、独自の飄逸さをもつ風景画を確立する。本作品は、御岳に定住して後、玉堂80歳の時のものである。山間の湖を高い位置からのぞむ構図で、前景に高い背丈の木々が描かれ、その間からのぞくのどかな集落が印象的である。集落から湖へと続く一本の道には、牛を引き湖の方向へと歩いていく農夫が点景人物として描かれている。本来、文人画の点景人物は高士を描くのが慣わしであったが、玉堂は身近な人々、働く人々を描きこむ。このようなモティーフの変化には、明治以降、鑑賞者が大衆化していくにつれ、共感を得られる身近な人物を描くようになったことが背景にあり、また、玉堂が幅広く国民に愛された理由でもあるだろう。  風景画について玉堂は次のように語っている。「日本画は思うままに自然を組立て、またそれを改変することによって特別の味がでる。故に日本画をよくかく(ママ)ことは、自然をよく組立てるということにもなる」(『和洋絵画描写法』 1933年)。 理想郷として「組み立て」られた風景の根底には、着実に積み重ねられた写生がある。故に、改変された風景であったとしても、玉堂の風景画は郷愁を誘うのである。  1957年(昭和32)川合玉堂が84歳で逝去した後、日本画家の鏑木清方は「日本の山河がなくなったような気がし、日本の風景がなくなったような気がする」と追悼の言葉を述べた。この言葉に象徴的に表われているように、玉堂は奥多摩の草庵に隠棲した最後の画人として日本の風景を画面にとどめた。