木蔭の村

作家名
萬鐵五郎
制作年
1918年(大正7)
技法・素材
油彩/カンヴァス
サイズ
50.0 x 60.7 cm

萬鐵五郎 《木蔭の村》 1918年(大正7)

作品解説

岩手県に生まれた萬鐵五郎は、大下藤次郎の『水彩画の栞』を手本に絵画を独学した後、18歳で上京し、1907年(明治40)、東京美術学校へ入学した。卒業制作の《裸体美人》(1912年、東京国立近代美術館)は、自ら「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と語ったように、ポスト印象派やフォーヴィスムの影響を示す記念碑的な作品である。
 1910年(明治43)に創刊された文芸雑誌『白樺』は、同時代のヨーロッパのさまざまな芸術運動を紹介し、芸術を志す若者たちを覚醒させた。図版や記事を通して目にするフランスのフォーヴィスム、キュビスム、ドイツ表現主義などの動きは萬の心をとらえ、1912年(大正元)、彼は岸田劉生らとともに新しい傾向の芸術をめざしフュウザン会を結成した。この会は1年で解散したが、若い画家への影響力は絶大であった。
 本作品は、萬が関心を示した画家のなかでもとくにドイツ表現主義の画家カンディンスキーの影響、とりわけ初期のムルナウ風景画を思わせる描写が印象的である。故郷の岩手・土沢を思わせる木々と家並みのモティーフをはじめ、躍動感あふれた筆致、強烈な色彩など、萬が新しい表現を獲得したことを感じさせる。故郷の岩手・土沢を思わせる木々のあいだの集落は、暖かな色彩と相まってのどかな雰囲気を漂わせるが、手前に見える赤と青のアーモンド形の奇妙な物体は、観者に不安な感じを与える。
 本作品の制作年は、ほぼ同じ構図の《木の間から見下した町》(岩手県立美術館)に大正7年と記されていることから、1918年(大正7)の作とされている。この頃制作に没頭していた萬は、心身ともに疲労の極限に達し、転地療養のため翌1919年(大正8)には神奈川県茅ヶ崎市に移り住む。以後、亡くなるまでの8年間はこの温暖な海沿いの町で暮らし、制作を続けた。