コレクションハイライト

パブロ・ピカソ (1881-1973)

パブロ・ピカソ 《海辺の母子像》

1902年 油彩/カンヴァス 81.7 x 59.8 cm


展示中
*8月中旬まで展示予定
(詳細な日付は未定、決まり次第お知らせいたします。)

20歳のピカソが描いた「青の時代」(1901-1904年)の作品です。ピカソは、親友カサジェマスの死をきっかけに、生と死、貧困といった主題に打ち込み、絵画からは明るくあたたかな色彩が消え、しだいに青い闇に覆われていきました。ピカソの「青の時代」の絵画には、純粋さ、静けさ、あるいは憂鬱など、さまざまなイメージを喚起する「青=ブルー」が巧みにもちいられています。

この作品は、ピカソが家族の住むスペインのバルセロナに帰郷していた頃に描かれました。夜の海岸に、母親が幼子を胸に抱いてたたずんでいます。地中海をのぞむこの海岸は、ピカソが通った美術学校の目の前に広がる浜辺で、ピカソが親友カサジェマスと過ごした学生時代の思い出の場所です。母親がまとう衣は、スペイン人が熱心に信奉するキリスト教の、聖母マリアの青いマントを思わせます。蒼白い手を伸ばして赤い花を天へと捧げる姿には、亡き友人へのピカソの鎮魂の祈りが重ねられているのかもしれません。


プロフィール

ピカソは1881年、スペイン南部の港町マラガで生まれました。美術教師の父の指導のもと、幼い頃から画才を発揮し、バルセロナの美術学校で本格的に絵画制作を始めます。

1900年の秋、パリをはじめて旅行したピカソは、以降パリとバルセロナを頻繁に往復します。1901年に親友のカサジェマスを自殺で失ったことをきっかけに、社会の底辺に生きる人々を青い色調を主調色に描くようになります。この時期のスタイルは「青の時代」と呼ばれています。

1904年、モンマルトルのアトリエ「バトー=ラヴォワール(洗濯船)」に居を構えたピカソは、しだいに暖かい色調の「バラ色の時代」へと移行しました。その後ピカソの絵画空間は劇的な変貌を遂げ、1907年に≪アヴィニョンの娘たち≫が誕生します。この頃、画家ブラックとの競合関係の中で開拓されたのが「キュビスム(立体主義)」です。これはセザンヌが示した、対象の幾何学的な形態による把握をさらに推し進め、対象を絵画平面において抽象化し再構成したもので、20世紀絵画に革命をもたらしました。

ピカソの画風は、キュビスム以降も、古典的で量感のある母子像を描いた「新古典主義」、「シュルレアリスム」、大作≪ゲルニカ≫にみられる戦争の悲惨さを訴える表現など、常に変化しつづけました。超人的な創造力で膨大な作品を制作し、その才能は絵画にとどまらず、彫刻、版画、陶芸など多岐にわたっています。

ポーラ美術館の収蔵するパブロ・ピカソのコレクション

ポーラ美術館のコレクションの一部を掲載しています

《海辺の母子像》の作品調査について

2018年、ポーラ美術館(神奈川県・箱根町)はワシントン・ナショナル・ギャラリー(アメリカ・ワシントン 以下NGA)アートギャラリー・オブ・オンタリオ(カナダ・トロント 以下AGO)との共同調査にて、パブロ・ピカソ《海辺の母子像》(1902年、ポーラ美術館蔵)の下層部に「新聞紙」の貼付を発見しました。
本調査は、対象物の成分に関する情報を非破壊・非接触で得られるハイパースペクトル・イメージング・スキャナーを用いて行われ、貼り付けられた新聞紙は、フランスの日刊紙『ル・ジュルナル』(Le Journal) で1902年1月18日に発行されたものと判明しました。この日付は、ピカソが「青の時代」にパリからバルセロナに移動した時期に重なることから、この発見はピカソ研究者にとって重要な意味をもたらすと考えられます。
またポーラ美術館では、2005年にも東京文化財研究所の協力によりX線透過写真等による《海辺の母子像》調査を行っており、下層に隠れた絵画の存在が判明しておりました。今回の調査によって、《海辺の母子像》の右上の角の位置に、絵画の下層部にピカソによって書かれた上下逆の署名があることも明らかになりました。
これらの発見はこれまでの調査の比較検討を併せ、ピカソ研究の発展に大きく貢献できるものと考えております。

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左:『ル・ジュルナル』紙(1902年1月18日号、3頁) Source gallica.bnf.fr / BnF
右:赤外線ハイパースペクトル擬似色彩による新聞紙の画像© John Delaney, National Gallery of Art, Washington