MODIGLIANI In Paris モディリアーニの過ごしたPARIS

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第1章 1906-1909 パリ・モンマルトル、デルタ通り モディリアーニ、パリへ

1906年にパリに来たモディリアーニは、北部のモンマルトルに居を定め、ユトリロやピカソと交流するようになります。また、セザンヌやゴーガンらポスト印象派の絵画に強い感銘を受けたのも、この頃です。画家としてのモディリアーニを初めて評価したのが、医師でコレクターでもあったポール・アレクサンドルでした。1907年秋にアレクサンドルと知り合ったモディリアーニは、モンマルトル界隈のデルタ通りにある、このコレクターが場所を提供する芸術家コロニーに身を置くようになります。アレクサンドルの庇護のもと、モディリアーニはパリで自らの芸術を創り上げる道へと踏み出していきます。


アメデオ・モディリアーニ
《青いブラウスの婦人像》
1910年頃  油彩/カンヴァス
公益財団法人ひろしま美術館

1 バトー=ラヴォワール(洗濯船)

1906年1月、故郷イタリアを離れパリに到着(21歳)。美術学校アカデミー・コラロッシに登録し、モンマルトルに住む。「バトー=ラヴォワール」(洗濯船)は、ボヘミアン芸術家のたまり場だった集合アトリエ兼住居。モディリアーニも出入りし、画家ピカソや詩人アポリネールらと知りあった。

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「バトー=ラヴォワール」
©Roger-Viollet / amanaimages

2 オ・ラパン・アジル(跳ね兎)

バトー=ラヴォワールに集う芸術家たちの、夜のたまり場だったキャバレー。画家モーリス・ユトリロとはここで出会い、親友になる。貧しいけれど上品で教養があり、お洒落なモディリアーニは女性に大人気。


キャバレー「オ・ラパン・アジル」

3 デルタ通り7番地の芸術家コロニー

医師ポール・アレクサンドルが所有する建物で、芸術家の共同作業の場となっていた。1907年、23歳のモディリアーニは、3歳年上のアレクサンドルと知り合う。アレクサンドルはモディリアーニの才能と、芸術家としての真摯な姿勢にほれ込み、最初のパトロンになった。彫刻家ブランクーシと出会ったのも、おそらくここ。


アメデオ・モディリアーニ
《ポール・アレクサンドル博士の肖像》
1909年 油彩/カンヴァス
ヤマザキマザック美術館

第2章 1909-1914 パリ・モンパルナス、シテ・ファルギエール 彫刻家としての苦闘

モディリアーニは1908年ごろ、アレクサンドルの紹介により、ルーマニア出身の彫刻家ブランクーシと出会います。彫刻、特に石彫に情熱を傾けるようになったモディリアーニは、翌年にはブランクーシが制作するモンパルナスのシテ・ファルギエールに移り、彫刻の制作に取り組み始めます。この時期、アフリカやオセアニアなどの地域の仮面や彫像がパリにもたらされ、原始の美を見出すプリミティヴィスムの気運が高まっていました。ピカソらによるキュビスムと同じく、モディリアーニもその影響から無縁ではなく、カリアティード(人像柱)をモティーフに、自らの理想のフォルムを追究していきました。しかし、彫刻制作は費用と体力の面で大きな負担となり、1914年頃には断念することになります。


アメデオ・モディリアーニ
《頭部》
1911-1912年頃 ブロンズ
彫刻の森美術館(公益財団法人彫刻の森芸術文化財団)

4 シテ・ファルギエール14番地の集合アトリエ兼住居

1909年、モディリアーニは彫刻に情熱を注ぐようになり、ブランクーシがアトリエを構えていたモンパルナスの集合アトリエ兼住居「シテ・ファルギエール」へと拠点を移す。ブランクーシの手助けで石彫に挑戦。当時パリで流行し始めていたアフリカ彫刻やカンボジア美術などの影響を受けながら、自分の理想のフォルムを追い求めた。

5 サロン・ドートンヌ

1912年、サロン・ドートンヌに彫刻7点を出品。これが、彫刻作品を公に発表した最初の機会であった。当時の前衛であったキュビスムの作家たちの作品とともに展示され、注目される。


1912年のサロン・ドートンヌ第11室の展示光景(『イリュストラシオン』紙 1912年10月12日号掲載)
©The Bridgeman Art Library / amanaimages

6 シテ・ファルギエール14番地の集合アトリエ兼住居

1913年末、パリに出てきた画家のフジタとスーティンが、シテ・ファルギエールで暮らし始める。隣室に入居していたモディリアーニは、ふたりと親しくつきあうようになり、その関係は後年まで続いた。一方で、この時期、体力的にも経済的にも負担の大きい石彫に限界を感じ、およそ5年にわたって取り組んだ彫刻制作を断念する。

第3章 1915-1918 パリ・モンパルナス、カフェ・ラ・ロトンド 前衛画家モディリアーニ

ふたたびカンヴァスに向かい始めたモディリアーニは、彫刻で追究していた単純化されたフォルムを引き続き肖像画で探っていき、描線やマティエールが次第に洗練されていきます。1916-1917年の裸婦のシリーズは、この時期の絵画への意欲的な取り組みの表われといえます。モディリアーニの絵画は、ポール・ギヨームやレオポルド・ズボロフスキらの 若い画商の目を惹き始めます。ピカソやキスリング、デ・キリコらとともにグループ展に名を連ね、同時代の前衛のひとりと目されるようになるのも、この時期のことです。しかしその生活は安定せず、モンパルナスのカフェを主たる場に、モディリアーニは退廃的な日々を重ねていくことになります。


アメデオ・モディリアーニ
《髪をほどいた横たわる裸婦》
1917年 油彩/カンヴァス
大阪新美術館建設準備室

7 ジョゼフ=バラ通り3番地

画家として再スタートしたモディリアーニを支援した、レオポルド・ズボロフスキの家があった場所。画商を副業にしていた詩人ズボロフスキは、1916年にモディリアーニと出会い、終生世話をすることに。自宅の一室をアトリエとして使わせたほか、画材やモデルも提供した。ズボロフスキのパートナーのハンカや、彼らの友人ルニア・チェホフスカもモディリアーニの良き理解者となる。1916年末、画学生ジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、まもなく恋人関係に。

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ジョゼフ=バラ通り3番地の自邸でのレオポルド・ズボロフスキ。
背後にモディリアーニがドアに描いたスーティンの肖像画

8 ベルト・ヴェイユ画廊

生前唯一の個展「モディリアーニの絵画と素描展」を開いた画廊(1917年、33歳)。開幕初日、ショーウィンドーに展示された裸婦像が「わいせつ」だとして警察に撤去を命じられる。批評家からの反響も全くといっていいほどなく、素描が2点売れたのみ。穴埋めに画廊主のベルト・ヴェイユが5点の絵画を購入した。


ベルト・ヴェイユ画廊での
「モディリアーニの絵画と素描展」の目録表紙 1917年

9 カフェ「ラ・ロトンド」

前衛画家として少しずつ世間に知られてきたものの、いまだ貧しいモディリアーニは、カフェで客の肖像をデッサンして売ることもあった。芸術家の社交場だったカフェ「ラ・ロトンド」もそのひとつ。人々の行きかうカフェで、様々な画家や詩人、画商らと交流を重ねる一方で、創作意欲をかきたてるモデルを見つけては、おびただしい数の人物デッサンを重ねた。それは、自ら求める理想的なフォルムを探る手段でもあった。


カフェ「ラ・ロトンド」に集った芸術家たち 1925年
AKG-Images/PPS通信社

第4章 1918-1920 ニース~パリ 南仏滞在を経て、新たな画境へ

1918年、第一次世界大戦の戦火とスペイン風邪の脅威を避け、モディリアーニはズボロフスキに導かれてニースに赴きます。南フランスで出会う農夫らをモデルに描いた作品には、それまでにない素朴さや穏やかさがうかがえます。この頃からモディリアーニの肖像画は、優美な描線と透明感のある明るい色彩との調和を通じて、独特の精神性を帯びるようになっていきます。静穏で古典的なものへの憧憬はこの時期、秩序への回帰の気運として、ピカソをはじめ前衛の芸術家に広く共有された姿勢でもありました。しかしモディリアーニにおいては、少年期にその心を強くとらえたシエナ派など13-14世紀のイタリア美術の記憶に促されたものでもあったといえるでしょう。


アメデオ・モディリアーニ
《若い農夫》
1918年頃 油彩/カンヴァス
公益財団法人石橋財団ブリヂストン美術館

10 グランド=ショミエール通り8番地の住居

第一次世界大戦の戦火を避け、1918年春から妊娠中のジャンヌとともにニースに疎開していたが、1919年5月、ひとりでパリに戻る(34歳)。ルニア・チェホフスカの肖像画を集中的に描く。前年に長女が生まれ、酒量も減ったモディリアーニ。ルニアとの間にも深い絆を育み、制作にまい進していた。8月にロンドンで行われたグループ展では、批評家の高い評価を得たほか、作品にも複数の買い手がつく。


ニースのプロムナード・デ・ザングレを歩く、
ポール・ギヨームとモディリアーニ 1918年
出典:Kenneth Wayne,
Modigliani and the Artists of Montparnasse,
New York: Abrams, 2002

11 グランド=ショミエール通り8番地の住居

1917年からジャンヌ・エビュテルヌと暮らしていた古いアパルトマン。盛んに制作するも、過労や長年の飲酒のため体調を崩していたモディリアーニは、1920年1月23日、意識不明で慈善病院へ運ばれる。幼い頃に患った結核が悪化し、24日の夜に結核性脳膜炎で亡くなった。享年35歳。26日の早朝、妊娠8か月だった21歳のジャンヌは、実家のあるアパルトマンの6階から身を投げた。


16歳のジャンヌ・エビュテルヌ 1914年4月
©Rue des Archives/PPS通信社

グランド=ショミエール通り8番地のモディリアーニと
ジャンヌが住んでいたアパルトマン