麗子坐像

  • 作家名 岸田劉生
  • 制作年 1919年(大正8)
  • 技法・素材 油彩/カンヴァス
  • サイズ 72.7 x 60.7 cm
岸田劉生の画家としての活動は、1908年(明治41)の白馬会洋画研究所入門からはじまる。この研究所の主宰は、外光派の中心人物、黒田清輝であった。劉生は外光派の画風をすばやく吸収し、早くも1910年(明治43)秋の第4回文展には風景画2点が入選するという早熟ぶりをみせたが、徐々に外光派のアカデミズムに不満を抱いていく。 高村光太郎が論文「緑色の太陽」を発表し、個性の時代の到来を告げて間もない頃、劉生は文芸雑誌『白樺』(1910年4月創刊)と出会う。ゴッホやセザンヌらの芸術を積極的に紹介していた同誌の影響のもと、高村光太郎、斎藤与里らとともにフュウザン会を結成し、油絵展覧会を開催して大成功をおさめると、劉生の名は一躍人の知るところとなった。 劉生は、生涯を通じて肖像画の制作に取り組んでいる。《斎藤与里氏像》(1913年、愛知県美術館)のようなゴッホやセザンヌの感化のもとに描かれた作品や、写実にもとづく表現への移行期に制作された《武者小路実篤像》(1914年、東京都現代美術館)など、友人の肖像が短時間につぎつぎと仕上げられ、「岸田の首狩り」と恐れられることもあった。しかし友人や職業モデルでは劉生の厳しい要望にこたえられなかったため、しだいに自画像または妻をモデルにして描くことが多くなっていった。そして愛娘麗子を描いた《麗子五歳之像》(1918年、東京国立近代美術館)以後、彼女をモデルにした作品が劉生の画題の中心を占めるようになる。本作品は、娘麗子に対する愛情をこめて、約2カ月かけて描かれた。執拗に制作に取り組む劉生の姿は、麗子とのあいだに張りつめた空気をもたらし、その面持ちは硬くこわばっている。絞りの着物の質感は克明に描かれ、暗闇に浮かび上がる赤と黄の対比が画面を引き締めている。